水素の話をすると、「今はやっていないんですよね?」と聞かれることがあります。
たしかに、今は事業として水素を扱っているわけではありません。
でも、自分の中ではずっと消えていないテーマであり、むしろ原点のようなものです。
今、力を入れている再生可能エネルギーや、前回お伝えした蓄電池の事業も、すべてこの水素の経験があってこそ。
今日は、その話をしてみたいと思います。
水素との出会い
私が最初に水素というものを意識したのは、大学1年生のときでした。当時通っていた大学は、水素エンジンの研究に力を入れていて、授業にも出てきたんです。
あるとき、「牛の糞尿から水素ができる」、「水素エネルギーが次世代のエネルギーになる」という話を聞き、正直驚きました。
専門的に水素について深く学ぶことはなかったのですが、「水素」という存在が頭に強く残ったのが、私の大学時代です。
その後、アメリカの大学院に進みます。
理系から一転して、リベラルアーツや経営を学ぶ学部へ入りました。英語も含めてかなり苦労しましたね。
ただ、英語圏で生活できた経験は、のちに海外の企業と取引する上で役立っています。
大学院にはアメリカ人、韓国人、中国人、ブラジル人やイタリア人。さまざまな人種の人たちがいました。国や文化が異なる人たちと接するなかでわかったのは、話をすればわかりあえる……人もいるんですが、そうじゃない人もいると(笑)。
つまりは、日本人と話しているのと変わらないんですよね。世の中いろんな人がいる。なので人種とかにかかわらず、みんなおなじ人間なんだというのを実感しました。
どの国の人であろうと、普通に臆することなく接することができるようになったのは、当時の体験のおかげですね。
帰国と水素事業のスタート
父から「水素をやるから戻ってこい」と連絡が来たのは、大学院の途中でした。
戻ることに迷いはありませんでした。
実は当時、学生生活がとても大変で。その現実から逃げたいという思いも少しあったかもしれませんが、それ以上に「水素のことをやってみたい」という気持ちがあったんです。
会社に戻って始まった水素事業。
でも、最初は本当に何もありませんでした。
売るものもない。
商品もない。
知識も十分じゃない。
あるのは、「これからのエネルギーは水素だ」という仮説だけ。
今振り返ると、普通の経営判断では絶対に手を出さない領域だったと思います。

最初に取り組んだのは、燃料電池を「見せるためのキット」をつくることでした。
スーツケースみたいな箱の中に装置を入れて、学校とかに持って行くんですよ。そこで「水素ってこういうものなんだよ」って説明する。
つまり、売る前に理解してもらうところから始めるしかなかったんです。
あと大きかったのは、水素をつくるための「水電解装置」を海外から購入したことでした。

実験を進めるにあたって、最初は水素のボンベを購入していたんですが、その費用が高かったんです。
当時国内では水電解装置をつくっているメーカーがなかったので、マレーシアの会社から1台買って使い始めました。
プロジェクトの始動と、稚内での日々
実験を進め、水素をつくりエネルギーとして使える目処がたった頃、国のモデル事業に採択され、プロジェクトが動き始めます。
場所は日光、そして稚内。
日光では水力、稚内では風力で電気をつくり、その電力を利用して水を電気分解して貯蔵しておける水素にする。そして水素で好きなときに発電する。
今でこそ語られる「再エネ×水素」の仕組みを、当時から実践しようとしました。
ただ、現実は甘くありませんでした。
装置はなかなか安定せず、引火しやすい性質を持つ水素の爆発事故が起きるなど……。
とくに稚内でのことは忘れがたい記憶です。納品後に不備があって現地にとんぼ返りし、結果的に半年近く常駐していました。
下宿はあったんですが、むかし産婦人科だった建物で、すごく古くて。夜中の10時とか11時ぐらいまでは水素発生装置を見ていないといけないんですが、水電解すると機械から熱が発生するんです。
それで温風が出てくるんですよね。稚内ってすごく寒いんですけど、その水素発生装置のまわりはあたたかくて。靴を枕にして、機械の近くで横になって暖をとったりしていました(笑)。
そんなこんなで、水素に取り組んでいたときの一番の思い出は稚内になりますね。

エネルギーでまちづくり、原点は稚内にあり
稚内にいた時期は思い出でもあり、正直個人的には苦しい時期でもありました。
装置は安定しない。
一緒に取り組んでいる地元の方々には、ときに厳しい言葉をいただく。
お金も生まれない。
でも、この経験が自分にとっては大きな財産になりました。
技術面を試行錯誤できただけではなく、社会人としての姿勢を、ともに働くみなさんから教わることができました。
そしてなにより、稚内が掲げていた「最北端から最先端へ」という、「エネルギーでまちをつくる」発想。
その考え方には非常に影響を受けて、今の自分のなかにそのまま残っています。
那須で今取り組んでいるエネルギー関係のプロジェクトも、稚内が目指していた「エネルギーを使ったまちづくり」を、那須で実現したいという想いからスタートしました。
那須疏水の水の流れから電気をつくり、水素をつくる。水素をエネルギーにして、地域に貢献する。

たとえば、この水素を利用して燃料電池バスを動かすことができれば、地域資源から生まれたエネルギーを人の生活にまで活用することができます。
水素事業とビジネスの壁
もう一つ、水素事業で学んだことのひとつが、新規事業を継続的なビジネスとして成立させる大切さです。
水素をエネルギーとして活用する。思想はわるくないし、まだ誰もできていないことにチャレンジしている。ただ、水素を活用してお金を生み出す仕組みを当時は構築できなかった。
投資はしているのに、回収できない。これでは経営としては成立しません。
最終的には、父の判断もあり、水素事業の継続をあきらめることになります。リーマンショックも重なり、会社として続けることが難しくなったためです。
この水素事業を、父は「遠回りをしてしまった」と言います。
でも、自分はすべてが失敗だったとは捉えていません。
事業としては続けられなかったけれど、いろんな可能性はあった。たとえばボーイング社や東芝、日立といったいろんな大手企業が、うちに視察に来るほどの事業でしたから。
私の認識では、水素事業は大きな種まきだったと思っています。

これからの再生エネルギーと水素
今、私たちは太陽光を中心とした再生可能エネルギーに取り組んでいます。
そして、その電気をどう使うか、どう貯めるかを考え、蓄電池の事業も進めています。
その先にあるのが、水素です。
電気は貯めきれない。だから、水素という形で貯める。これは当時から見えていた流れです。

あのときは早すぎた。でも、間違ってはいなかった。そう思っています。
もう一度、水素に関わることがあるとしたら。メーカーではなく、水素を活用する社会の仕組みをつくる側として関わりたいと思っています。
地域でどうエネルギーを循環させるか。どうやってまちに実装するか。そういう役割を、この那須地域で担っていきたい。
過去の経験は、終わったものではありません。どう解釈するかで、未来につながるものになる。水素事業は、私にとってまさにそういうものでした。
次に水素をやるときは、きっと。
「あのときやっておいてよかった」と、もう一度思えるはずです。